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岩代 若松城

若松城:2011年5月2日

名 称

 若松城

別 名

 鶴ヶ城・会津若松城・黒川城

種 類  平山城(国指定史跡)
住 所  福島県会津若松市追手町

 上の写真は、岩代の国、福島県・若松城です。
 本年3月に赤瓦の天守としてリニューアルオープンしました。
 国の指定史跡、日本百名城のお城の一つでもあります。

 自分の周りの方と、『会津若松城』と話を切り出すと必ず、『あぁ。 鶴ヶ城ねぇ』と返ってきます。
 地図の記載等にも、その名称が記載されているので、鶴ヶ城の名前のほうが一般的な呼称のように思えます。

 東日本大震災から一月半、この若松城にも影響は少なからずあったようです。(詳しくはコチラで)、

 登城の感想として印象に残るのは、鉄筋コンクリートではありますが、当時の遺構そのままに復元された天守の容姿が綺麗なこと。

 廃城直前の写真、もしくは戊辰戦争後の写真が残っていたことが、この城姿を浮び上がらせているのではないでしょうか。

 それと本丸の周りにある馬出の遺構が残っていること。

 西・北側に馬出しに守られ、東には二ノ丸、更に東には三ノ丸が広がり、南側には湯川などの天然の要害が施された堅固な城郭が印象的です。

 左の地図を見ると、北・西側にある馬出がハッキリと判ります。
 

 


 上の写真が天守から撮影した、本丸北側、太鼓門を守る武者走の遺構がある石垣です。
 規模の大きさから目を見張りました。

 太鼓門の遺構は、どのようなものだったのでしょうかぁ。
 この石垣の上に櫓門なんかがあったりすると。。。想像するだけで夜も更けます。。。
 下の写真が、茶壷櫓跡から見る本丸の高石垣です。 向こう側に見える橋が高さ19㍍ある廊下橋になります。


 左上の写真が天守から撮影した干飯櫓です。 平成12年に復元されました。
 そして右上の写真が、本丸北角櫓跡付近から見た北出丸の石垣になります。
 左下の写真も西大手門付近から見た北出丸になります。

 鶴ヶ城に登城して驚いたのが、西出丸の遺構が現代の車止(駐車場)となっていること。
 更に、北出丸の遺構を通り抜けて西出丸まで自家用車で入って行けるところです。
 鶴ヶ城周辺から出丸部分までの高低差がないため、出丸を築いて本丸への防備としたということを実証出来た事ではないでしょうかぁ?

 右下が西出丸の西北角櫓方面を写した写真です。

 他にも語り尽くせない遺構がたくさんあります。 お城ファン必見の城郭です。。。


 【若松城の歴史】
 若松城の興りは古く、南北朝時代までさかのぼります。
 その時代に蘆名直盛と云う人物が現在の城郭に館を築いたのがはじまりだとされ、その後、黒川城として戦国時代中期まで蘆名一族が覇権を握り続けます。
 戦国時代後期に入ると、伊達政宗×蘆名氏の争いが激しくなり、天正十七年(1589)にとうとう政宗は黒川城を手にします。しかし翌年、正宗は秀吉に臣従して会津をあとにします。
 その後、黒川城には蒲生氏郷が入城します。文禄元年(1592)~慶長三年(1598)まで、氏郷・秀行と続き、黒川城を鶴ヶ城と改め、望楼型の天守が建てられました。
 慶長三年(1598)に蒲生家でお家騒動が起こってしまい、宇都宮へ減封してしまいます。その入れ替わりに、越後の上杉景勝が会津・米沢・庄内を含む百二十万石の大藩として入封して関が原の戦いに突入。 結果、米沢藩三十万石へ減封します。
 慶長六年(1601)には、再び蒲生秀行が入城、寛永四年(1627)に嫡男の忠郷に嗣子がなく伊予・松山城に移封。 入れ替わり松山城より加藤嘉明が入封。嫡男の明成の時代に、西出丸、北出丸などの造築を行い、このとき慶長十六年(1611)に起きた会津地震で倒壊した天守を現在みられる層塔型の天守に修築しています。 この頃、現在の会津若松城が形成されています。
 寛永二十年(1643)、加藤氏は改易され、出羽・山形城より三大将軍家光の庶弟である保科正之が入封。維新まで会津松平氏の居城となり、戊辰戦争へ続くこととなります。


    

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