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安芸 広島城

広島城:
①:2002年 7月21日
②:2011年10月 1日

名 称

 広島城

種 類  平城(国指定史跡)
住 所  広島県広島市中区基町

 安芸 広島城です。
 いつも写真を戴いております広島県在住の方の結婚式に出席してまいりました。
 ご結婚おめでとうございます。
 また、お城の写真をお願いします。

結婚式前日に登城した広島城を改めて更新しましたので、ご報告いたします。


   上の写真が広島城の天守になります。
 復元されていますが、戦前まで現存し写真等の資料もありましたので、忠実に当時の容姿を再現しています。
マウスを合わせると、以前広島の方から戴いた2002年の写真になります)
 
 広島城の天守閣は、あの8月6日の惨事までは、当時国宝の現存天守として存在していました。
 焼失後の昭和三十三年(1958)に、現在の外観復元された広島城になりました。

 明治維新までは、L字型に南側と東側に渡り廊下を介して小天守が存在していましたが、明治に入り破却されたそうです。

 

 


 上の写真は、二の丸内から撮影した太鼓櫓と多聞櫓です。
 平成六年(1994)に二の丸の平櫓・表御門と共に木造で復元されました。
 左下の写真は、二の丸の表御門を本丸側から撮影したものです。

 広島城の縄張りは梯郭式と云うもので、本丸から馬出状に重なった形式の事を指します。
 現在は本丸・二の丸の城域しかありませんが、昭和の初めまでは更に三の丸の周りにまで堀が存在。 更に外側には、太田川の支流が三角州となって広島城を守っていました。

 右下の写真が二の丸と本丸を結ぶ土橋と、大手虎口にあたる中御門跡です。
 土橋から枡形に折れ曲がっているのが判りますでしょうか?



 『以下は、以前に広島在住の方から戴いたときに掲載した内容です・・・』

 作者が勝手に感じた広島城での印象深い事柄は、『福島正則』と云う人物です。
関が原で武功を挙げ清洲城からこの広島城へ49万石に加増されやってきました。 その後元和に入り広島城が洪水で破損してしまい、幕府に修築の届出を本多正純に出したが無視され、それを知らずに正則は城を修復してしまい、1619年に無断修築を理由に信州川中島へ改易されてしまいました。
 徳川方から見れば豊臣家滅亡後の『危険人物』をまんまと葬り去ったように思えますが、その時の正則の気持ちからしてみれば、死んでも死に切れなかったように思えます。
 豊臣恩顧の大名である筈の加藤清正と福島正則は関が原では東軍に加わり、その後大坂冬の陣では正則は江戸で謹慎させられ、(清正は三年前に死去(毒殺?))しぶしぶ夏の陣では徳川方で参戦。
 その直後に改易となってしまった彼の半生は、家康にいいように翻弄されつづけたようにも感じられます。 家康が正則の性格をまんまと操った結果なのでしょうか? この福島正則、慶長十四年に丹波・篠山城の築城の折には総監督として活躍しています。
篠山城のページにも記載してありますが、天守閣が築城できなかったのはそのためでしょうか?


    

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