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常陸 守谷城

守谷城・空掘

守谷城 2010年6月1日

名 称

 守谷城

種 類  平山城(守谷市指定史跡)
住 所  茨城県守谷市

 上の写真が守谷城の御馬家台と平台の間を断ち切る空掘です。

 消化不足だった菅生城登城の後に、この守谷城にやってまいりました。
 公園にある城跡だけに整備され過ぎてしまってるのでは?と思っていましたが、遺構はすばらしく、大変満足のいく登城となりました。

【守谷城の歴史】
 守谷城址公園内の平台にあった、案内板の年表から要約すると、
『大永五年(1525)、「足利高基書状」の史料から「相守因幡守(相馬守谷因幡守)」と称する相場一族の人物(相馬胤広)が、 守谷に居城をもっている』

『天文六年(1537)、「関八州古戦録」に守谷を本拠としている相馬氏の存在が記録されている。現守谷城の前身になった城館はこの頃築かれたと考える』 とあります。
 その後、上杉勢v.s.後北条勢による争いに巻き込まれ、最終的にこの守谷城は北条の色に染められていくことになります。

 左の写真が城跡の入り口である上の写真から右側に登った付近にある橋台と呼ばれる曲輪です。

 ここは、背後にある御馬家台と呼ばれる曲輪から橋が架かかり、この付近が橋詰となっていたされる箇所になります。

 更に左の写真にマウスを合わせると、守谷城の中核、本丸とされる平台にあがることになります。
 橋台付近にある土塁が見どころだったのですが、光量不足で撮影に失敗。。
 この写真の右側に櫓台の遺構があるとされていましたが、どれが遺構であるか識別できませんでした。。

 う~ん。。。むずかしぃ。。



 左上の写真が平台の突端に位置する土橋です。 更にマウスを合わせると土橋を渡りきった位置にある曲輪になります。 この曲輪を左に空掘を下りてから、更に先にある曲輪に通じることになります。 当時は御馬家台と平台の間と同様に、橋が架かっていたのかもしれません。
 
 右上の写真が土橋から右側に広がる空掘を写したものです。 写真上で表現できないのですが、非常に深い空掘になっています。 当時は更に堆積物が取り払われていることを考えると、非常に大規模な遺構です。
 マウスを合わせると土橋を渡り切った先にある空掘を、城跡北側に広がる公園側から撮影したものです。 この辺の遺構は複雑で、土橋が架かっている空掘りと、更にその先に跨る空掘と二重構造になっています。

 左の写真が土橋の向こう、平台の東側にある曲輪です。 あまり特筆できるところは見当たりませんでした。

 マウスを合わせると守谷城の突端、妙見曲輪になります。 当時、沼であったであろう場所には、現在一面に広がる田んぼになっていました。
 この帯曲輪は、さながら湖畔の船着場のように見えます。
 近くにあった守谷市教育委員会の掲示板によると、相馬氏が守谷城築城時、ここに妙見菩薩を祀ったことから、妙見曲輪となったそうです。

 最後に下の左右の写真が、本丸とされる平台の北側に当たる船着場へと通ずる回廊です。 船着場への道ではなく、大手道のように堅牢に思えます。 何や意味合いがあったのでしょうか?





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