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遠江 二俣城 鳥羽山城



 上の写真は二俣城にあった井戸櫓をの復元したもので、現在は清瀧寺にあります。
 この櫓は二俣城の天竜川に張り出された曲輪の突端にあり、城の生命線でとも云うべき水を天竜川から汲みあげていました。
[第一次二俣城の戦い]
 元亀三年(1572)、信玄は西上作戦で最大の見せ場である三方ヶ原の戦いの前哨戦、徳川方との一言坂の戦いを10月14日に快勝で終えた後、この二俣城を10月16日に囲みます。
 攻めあぐねていた武田方は、水の手が上記の井戸櫓であることを見い出し、天竜川上流から筏(イカダ)を流すことによる破壊作戦を実施。 見事、井戸櫓を破壊して水の手を絶つことに成功しました。
 徳川方の城代・中根正照は枯渇に苦しみ、12月19日に降伏・開城して浜松城に墜ちていきました。 信玄はその三日後に浜松城方面へ進軍、三方ヶ原の戦いへ向かいます。


二俣城








 上の地図を見ていただく通り、二俣城と南にある鳥羽山公園(鳥羽山城)は陸続きとなっていますが、戦国時代はここに二俣川が流れていました。
 江戸時代に入り寛政三年(1791)、二俣の名主:袴田喜長(よしなが)が私財を投じて鳥羽山に掘割を切り開き、二俣を水害から解き放しました。
 地図を右にドラックすると二俣川が真っ直ぐ南に鳥羽山の東側から天竜川に流れているのが判ります。
[第二次二俣城の戦い]
 時代は戻って武田方の城郭となった元亀三年(1572)以降、城主に信濃に居を構える芦田信守と依田信蕃[よだのぶしげ]の父子を迎えますが、天正三年(1575)5月21日に長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗。 ここ遠江一帯も徳川方の攻勢が強まってきます。
 同年7月、掛川城の東方にある武田方の諏訪原城が落城。 二俣城も徳川攻城軍が取り囲み、本陣として下の鳥羽山城を築城。 この他にも毘沙門堂砦、蜷原砦、和田ヶ島砦を構築し二俣城を包囲します。
 城内では芦田信守が病床で息を引き取りますが、息・依田信蕃によって二俣城を死守。 信蕃は武田方からの援軍も受けられないまま長篠の戦い以降の半年間、城を守り続け、同年12月24日「城兵の安全な退去」を約定して開城、信蕃は駿河田中城に撤退しました。


鳥羽山城








 依田信蕃退却後、再び武田方が攻め込んできていますが、新たに城主となった徳川方の大久保忠世によって城に寄り付くことが出来ませんでした。
 二俣城に対する付城が、こんどは出城となって大きな城域を形成する結果となったことでしょう。
 城内にあった案内図[浜松市市民部文化財課]では二俣城は軍事的な城郭、鳥羽山城は領主の居館であることが推定されることから「別郭一城」であるとしています。
 家康の移封後の天正十八年(1590)浜松城に堀尾吉晴が入ると、二俣城主には弟の宗光が納めます。 案内図には現在の二俣城・鳥羽山城に石垣が形成されたのはその頃だと云うことです。
【家康長男:信康の自刃】
 二俣城奪還後から関東へ移封するまでの期間、家康の長男が二俣城内で自刃する事件が発生します。
 一昔前までは織田信長に家康の正室・築山御前と信康が武田方に内通したとの報がもたらされ、信長は家康にこの二人を処断するよう求めたことが要因とされてきましたが、現在では家康と家臣団の対立が原因であることが濃厚だと云うことです。
 作者の私心としては、遠江領内に高天神城が武田方にあり勝頼はまだ健在である時期、敵の最前線である二俣城に幽閉されているのは、上記の理由と不釣り合いなところがあります。
 今の時代でも同じですが、ときの政権に都合が悪いことは抹消したがるのが世の常。 ましてや昔の話でもあります。 真実はこの先も闇の中ではないでしょうか。
 
 冒頭の清瀧寺には、信康のほかに武田方の猛攻に耐え三方ヶ原の戦いに散った中根正照、奪還後の城主・大久保忠世たちが眠っています。
 
 二俣城は慶長五年(1600)、堀尾吉晴が転封後に廃城になったとされています。








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