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遠江 掛川城



 遠江(とおとうみ)・掛川城です。
 上の写真は天守丸・冠木門から見る復元天守閣となります。
 下の写真は天守閣から見た二の丸御殿になります。
 やはり掛川城と云えば、この現存・二の丸御殿。江戸時代後期ではありますが、嘉永七年(1854)の安政地震により二の丸御殿が倒壊し、当時の城主であった太田資功(すけかつ)により安政二年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建されたということです。





 掛川城・天守や御殿など





 掛川城は室町時代の文明(1469-1487)年間に守護大名の今川義忠が、 重臣朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えら、その後代々朝比奈氏が城代を務めます。
 永禄十一年(1568)、今川氏が武田信玄と徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、 今川氏真は駿府館を捨てて、朝比奈泰朝の掛川城に逃げ延びます。
 このため、徳川勢の包囲されますが、泰朝が掛川城を死守しなかなか落城しませんでした。
しかし、その後和議によって主君氏真の身の無事を家康に認めさせると泰朝は開城を決意、 氏真と泰朝は永禄十二年(1569年)1月23日に開城し、相模国の小田原城へ蟄居。代わりに掛川城は城代に家康の重臣・石川家成・康通親子が入りました。
 その後も駿河国に入った武田信玄・勝頼と徳川家康が遠江(年表)で対峙、天正二年(1574)八月、 東遠州に侵攻した約1万の武田勝頼軍は天竜川西岸まで進出、徳川方と天竜川を挟んで小競合いとなります。
 その際この掛川城付近を通過していますが、石川氏は主君・家康からの謂わしめから城から打って出ずに篭城に徹します。
 掛川城は天正十年(1582)武田氏滅亡まで徳川氏の領有であり続けました。







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