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遠江 高天神城



 遠江(とおとうみ)・高天神城です。
 上の写真は追手門(大手門)を高天神城入り口付近から見た写真となります。
 この高天神城は元亀から天正にかけ、度々歴史の表舞台に経ちます。
 少なくても2回以上の主だった戦いで上の写真の追手門が主戦場となり、多くの死傷者を出し名だたる武将がここ高天神城内で斃れていきます。
 年表の上で特筆すべきは、信玄亡き年、高天神城攻略に動いていること。
 もう一点は長篠の戦を挟み計六年間、武田方がこの高天神城を維持できたことです。

高天神城・東峰の本丸城域






 上の写真は本丸に至る虎口から本丸・御前曲輪・的場曲輪になります。
 この高天神城は上記東峰の本丸部分と西峰の西の丸部分とが双頭の城郭となっており、この本丸は一対のうちの一つとなります。
 御前曲輪内にある祠は江戸時代までここに高天神社として祀られていましたが、現在は西の丸へ高天神社は移され、ここは元宮となっています。 毎年春の例大祭では、西の丸の高天神社からここ元宮まで、ご祭神が神輿に乗って里帰りするそうです。
 また、同じく御前曲輪にあるコンクリートの土台は地元出身の軍医少将だった加藤 安吉氏が昭和九年に私費で二層の模擬天守を建てたそうで、昭和二十年に落雷により焼失したそうです。




 上の写真はこの高天神城登城でのベストショット?、西の丸からの馬場平にかけての切割という遺構になります。
 築城当時、実際にこのような登りやすい階段状の形状になっていたかは疑わしいですが、攻城側にとって攻めづらいことはこの写真から見て取れます。

 高天神城・西峰の西の丸城域






 写真の案内板にも記載がりましたが[第一次高天神城の戦い]の際、西側緩斜面の弱点を補うため武田氏によって井楼曲輪まで続く長大な横堀(空堀)が構築されました。
 [第二次高天神城の戦い]の敗戦によって、この城は武田家・徳川家の支配が終焉となり廃城となりますが、この時代、遠江での高天神城の戦略価値はどれくらいあったのでしょう。
 年表上にある、高天神城と峰が伝わっている小笠原山系から東側、牧之原台地から西側の丁度菊川市にあたる地域が両陣営の主戦場となります。
 勝頼側は高天神城を落とした翌年に長篠の戦において大敗を喫するわけですが、当初は二俣・高天神、両城を橋頭堡とし、満を持した段階で浜松を潰し家康を岡崎へ押し返し今川家の旧領すべてを治める算段だったのではないでしょうか。
 現在、新田次郎 著「武田勝頼」を読んでおりますが、高天神城攻略から長篠の戦に至るまで奥深い話が満載です。
 以前(10年以上?)新田次郎 の「武田信玄」を読み、次は「勝頼」!と思いましたが、武田家の衰退が判っていただけに手が伸びませんでした。
 今考えると天正に入ってから十年間の遠江の歴史が、自身の頭の中から抜け落ちていたように思えます。。







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